学校教育

コミュニケーション能力ってナニ?  シャイな子どもを評価する     七篠 独迷

コミュニケーション能力と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか? 学校でも、会社でも、いつでもどこでもコミュニケーション能力が大事だと言われる。そんな現代社会に、僕たちは生きています。コミュニケーション能力が低いと、何か物凄く人間として欠陥を抱えているようにすら見られてしまう。

一般的に、特に学校内で、コミュニケーション能力とは、「自分の意見をちゃんと相手に伝える能力」だと認識されているように観察されますが、果たして本当にそれがコミュニケーション能力なのでしょうか。確かにその能力が大切であることは間違いないとは思います。しかし、果たしてそんなものが、現代社会で幅を利かせるコミュニケーション能力の正体なのでしょうか。教育現場は、コミュニケーション能力というものを、まだきちんと掴み切れていないのではないか。あまりにも「自分の意見をちゃんと相手に伝える能力」が独り歩きしていないだろうかと、僕は疑問に思っています。

では、コミュニケーション能力とは一体何なのでしょうか。コミュニケイトという動詞の語源は、 communis(公共の)+ico(する)というラテン語です。「伝える」ではなく「共有する」がより語源に近いでしょう。では、「伝える」と「共有する」の違いは何なのでしょうか。公の下に共有するというのは、「伝える」よりも相互性が高いイメージでしょうか。それは、話し手と聞き手で共に言葉を紡いでいくことだと思います。

僕が、いろいろな本を読みながら、あぁこれがコミュニケーション能力だなと思ったのは、相手がうまく言葉にできなくて言い淀んでしまう言葉や、話が行ったり来たりまとまりのない話に、ちゃんと耳を傾けて、そこから何かを大事に掬い上げる能力、というものです。そして、相手と自分で共有する。決して自分の意見を相手に伝える能力なんかではない。学校や家庭を問わず、今の教育には、挙げればキリがないほどおかしな点があるのですが、そのひとつに、何かあればすぐに『自分の言いたいことをちゃんと伝えないさい』みたいなことを子どもに迫る、というのがあります。これ、おかしくはないでしょうか? 僕は、幼くて未熟でボキャブラリーも貧相な子どもに、そんなことできるわけないじゃないかと思うのです。特に、感性の豊かな子どもや言葉を大事にする子どもほど、です。

感性が豊かで言葉を大事にする子どもは、表面的に周りからどのように観察されるでしょうか。それは、シャイな子どもです。もちろん、シャイな子どもがみんなそうだとは言えませんが、傾向としては言えるのではないでしょうか。僕は、シャイであることって、本当は素晴らしいことなのではないかと思っています。彼らの多くは、そうでない子どもよりも感性が豊かで、言葉を大切に扱う傾向が強い。自分の豊かな感性に、貧しいボキャブラリーが追いついていないだけなのではないかと思うのです。その貧相なボキャブラリーの中で、どのような言葉で、どのような順序で言えば相手に一番伝わるかを、一生懸命考えている。だから言い淀みもするし、発した言葉を撤回して言い直して、話が行ったり来たりして前に進まない。親も教師も社会も、そのことを見落としていないだろうかと思うのです。見落として、シャイであることを無理矢理矯正しようとしてはいないか。すぐに言葉が出ないことは悪いことだと思ってはいないか。周囲の大人のそのような態度で、シャイな子どもたちは、どんどん自信を失くして、どんどん萎縮して、自己肯定感を低くしてしまっていないか。

感性が豊かで言葉を大事にするシャイな子どもたちは、相手の感性も言葉も大事にする素養を持っていると思います。相手がうまく言語化できない言葉の欠片を、大事に大事に掬い上げようとします。そういう人たちは、何か自分の考えを主張するときも、相手の言葉や想いに、自らの言葉や想いを「乗せる」のです。決して「言い放つ」ことをしない。しかし、そんな素晴らしい素養も、自己肯定感が低くなればどんどん失われていくでしょう。別に活発で元気な子どもたちを評価するなと言っているわけではなく、評価ポイントが、あまりにも偏り過ぎていないかと懸念しています。コミュニケーション能力というものを、もっと多面的に捉えなければ、社会にとても危険な影響を与えるのではないでしょうか。

今、目の前で黙っている子どもは、まだ言葉にならない「何か」を一生懸命育てている最中かもしれません。周囲の大人がすべきことは、その「何か」を見守ったり、水をあげたりすることではないでしょうか。決して、「今必要なんだ!」と引っこ抜いてはいけない。そこに何もなかったらどうするんだと言われるかもしれません。何もなければ、「何もない」ことを大切にすればいいのだと思います。その何もないところを、踏み荒らしさえしなければ、いつか「何か」が生まれることでしょう。そしてそれは、「あなたの知らない何か」かもしれません。